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演歌の主体=女が、往々にして待ち、耐え、忍び、男に幸せにしてもらうことを願う受け身の存在でしかないようで、どうも演歌は好きになれいと思っている人は多い。
確かに演歌に歌われているほとんどの女は、男に尽くす受け身のヒロインか、優しくたくましい母である。演歌の作り手(歌い手ではなく)が多くは男である以上、このようにヒロインのイメージが、男が女に期待するダブルスタンダードになるのは、必然であると思われる。
しかし、現実の女たちはとっくに涙のヒロインから脱皮し、健気な母の役を棄てている。
このギャップは、現実社会の女と男のそれと可笑しいほど似ている。
3 6 才で引退した都はるみに「美空ひばりを継ぐのはお前しかいない。もう一度、歌うんだ。」と言って、復帰を促したのは、故 中上健次だ。その中上健次に代わって、都はるみを見続けようと勝手に決め込み、3月19日、文化会館大ホールで行われた「都はる みコンサート」に行って来た。
1990年の復帰第1回目のコンサートでは、装置もバンドも何もない舞台の上でたった一人、20数曲を一気に歌いきり、彼女は 復帰に賭ける身を削るような心意気を見せていた。
あれから12年、舞台の上に居たのは、歌うことを自らの宿命として引き受けきった、54才という年月をありのままに抱きしめている馥郁とした彼女だった。
若かった頃を愛しみこそすれ、けっして固執せず、年を経ることによって解ってきたこと、得たことの豊かさを惜しげもなく出し切る清々しいまでの成熟した一人の女性だ。
歌われた歌は、ど演歌あり、ロック風あり、ジャズヴォーカル風あり、ニューミュージック風ありと彼女の歌の幅の広さと実力を十 分に示すものだった。
中でも出色だったのは、短歌人の道浦母都子に頼んで、短歌に曲を付けさせてもらった「邪宗門」という歌で、短歌の持つ凝縮され た言葉の力によって、聴いていると体中をエロスの電流が駆けめぐるようだった。
少し長いが、歌詞を紹介する。
残照の光の海を
@[二人行く ふたりゆく
花のごとかる罪を抱きて]
(いだきて)
ただ一本 買いしコスモス 冷たくて
素直なるかな 花の透明
昼深く 夢にみている しろじろと
煙れるまでに(けぶれるまでに)熱持つ乳房
物語りをつくるのはわたし
世界を生むのはわたし
A[ああ あなたを
あなたを愛して
あかねさすわたし]
愛しては ひとを追いつめたりしこと
野火のごとしも 夏の終わりの
洗い髪 濡れて光れるそのままを
あなたに倒れて ゆくまでの愛
扉を開くのはわたし
季節を生むのはわたし
Aをくりかえす
漲れる(みなぎれる) 男の体 寒の夜を
抱きしめれば(いだきしめれば)樹液の匂い
もろともに 藍ひといろの湖(うみ)となり森となりゆく 透きてゆくまで
天空を翔けるのはわたし
虹を生むのはわたし
Aくりかえす
@をくりかえす
ここにいるのは、受け身のヒロインではなく、男を愛し、抱きしめ、自らの物語を主体的に語る能動的なヒロインだ。
何度も繰り返される「わたし」という言葉が獲得したものは、都はるみや道浦母都子と同年代の女たちが、リブやフェミニズムを通して七転八倒の末に手に入れた「”わたし”を生きることの自由」だ。
私たち女は、やっと成熟した大人の女の情愛に耐えうる「演歌」に出逢った。
果たして、この歌に真正面から対峙しうる客体に、現実の男はなり得るのだろうか?
物語りは、今、ここから始まろうとしている。