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グラフ旭川 ずっこけ介護バトル

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第1回

肝っ玉母さん、その名はヤチヨ

わたしの母の名は、ヤチヨ、3年前の77歳まで現役の焼鳥屋のおかみさんでした。戦後、父とふたりで始めた店ですが、30年ほど前に父が脳溢血で倒れてからは、4人の従業員さんに助けられながら、一人でお店を切り盛りしてきました。

思ったことは口に出さなければ気の済まない性格で、ポンポンとなんでも明け透けに言うので、こちらはムッとくるのですが、言った本人は、後がなくケロッとしています。結構苦労もしているのですが、“明日は明日の風が吹く”的明るい生き方がお客さんに受けていました。

そんな母が、3年前に具合が悪くなって、お店を引退することになりました。それまでも、いろんな病気になっては、入院したり手術したりしていたのですが、いつも回復してはお店に復帰していました。

しかし、今回ばかりはそうはいきませんでした。入院生活が長かったので足腰が弱ったのと糖尿病からきた白内障で視力がぐんと落ちたのとで、さすがのヤチヨかあさんもお店にでることをあきらめました。まぁ、わたしというりっぱ?な跡取りができたことに安心したのかもしれませんが・・・。

介護保険開始が、我が家の介護元年

介護保険制度は、1999年度から具体的な準備が始まり、2000年4月から保険給付(介護サービス)がはじまりました。

母は、まるでそれを待っていたかのように、要介護になったのです。

1999年の秋に、大腸憩室の手術を受け、2000年の3月いっぱい病院でお世話になりながら体力をつけ、4月に退院して自宅に戻ることになりました。

さあ、介護の始まりです。よし、始まったばかりのこの制度をフルに活用して介護を乗り切ろう。ついでに、介護保険制度をしっかりマスターして、自分の老後に備えよう。こりゃ、一石二鳥だ、よし、がんばるぞ!

この時のわたしは、まだ、介護の大変さをぜんぜんわかっておらず、ノーテンキそのものでした。

しかし、これが母とわたしの介護バトルのはじまりでした。介護保険は始まったばかりで、行政も委託業者も利用者もみんな右も左もわからない。身内で介護したり、されたりした者もなく、さっぱり見当がつかない。仕事は辞められないうえに、仕事以外の“仕事”も抱えていて、そちらも手を抜けない。おまけに、要介護者のヤチヨかあさんは、親戚一同から、「何を言っても、だれの言うことも聞かないんだから」と、公式公認されているつわものです。ああ、お先真っ暗、前途多難・・・。

介護は女の正念場

周りをちょっと見回してください。家庭で介護を担っているのは、ほとんどが女性です。介護を職業としている人も、ほとんどが女性です。そうやって、身内の介護や他人の介護をさんざんした後に、長生きしたら、だれがわたしたち女性の介護をしてくれるというのでしょうか?娘か嫁か?無理でしょうねぇ。これからは、娘も嫁も自分の人生を大切に生きる時代ですもの、全面的に頼れそうもないし、頼りたくもありません。

この連載をさせていただきながら、母の介護をとおして見えてくること、感じることを、読者のみなさんに赤裸々にお伝えすることによって、いっしょに介護の問題点を考えていけたら、と思っています。

今は若い人にも老後は必ずやってきます。私たちの世代にとっては、すぐ目の前です。今から少しずつでも使い勝手のいい制度にみんなでしていきましょうよ、どんな状態になっても、自分らしく精一杯生きられる明るく楽しい老後のために。

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